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そうじゃない明日/Another Tomorrow

​対話:みきたまき (DamaDamTal) × 糸井 潤 (写真家)

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みきたまき (以下 た):

今回、皆さんに一通り見てもらった後にここに座っていただいて、改めて…
改まってお話ししましょうなんて、糸井さんと初対面の時以来かもしれないですけど…
人と話すってどんなでしたっけ?っていうのをかみしめて、お話ししましょうというコーナーでして、

この展示は実はこの時間がメインでございます。
私は自粛期間に自分の家で手癖やいたずらの延長のようなことをして形に残し、それをこの期間の日記のように観てもらって“私はこういう感じでしたけど、あなたはどうでした?”というのをお客様に聞くという流れなのですが、糸井さんは木こりのお仕事をしていて日常はそんなに変わらなかったですか?

糸井潤(以下 糸):

変わらなかったです。逆に忙しくなりました。
林業の季節的な物があるのと、東京の以前の仕事のテレワークが結構忙しくなってきて、スカイプで英語を教える仕事(*1)の生徒がちょっと増えて、だから今のところ毎週1人はスカイプで英語の仕事をやってます。(*1 英会話のWEB

た:テレワークが増えたのと、スカイプの生徒が増えたのは、コロナと関係あるんですか?

糸:ある程度関係はあると思います。あと、行政から芸術家支援の助成金が下りて、映像を作る仕事もあったので、それも忙しかった。展覧会が一つもないのに忙しい。あれだけ展覧会がめちゃくちゃ忙しかったのに…。

た:出身地の栃木県小山市の、ですね。あの動画も、自粛期間中に作ったんですか?

糸:作りました。

た:じゃあ、心境的に特別変化があったわけではない、と。

糸:そうだね。コロナの影響について騒いでいるのは蚊帳の外で、仕事とかも含めてこのマスクをつけてるのも今年で3枚目くらいなんじゃないかな。

た:(笑

糸:(マスクを)全然使わなくて…林業の仕事も山の中だし、作業中は人とは離れてないとダメだから。テレワークも一人だし。それで普段は必要無いので、スーパーに買い物に行くときに店内でマスクをしてる客を見て、慌てて車に戻ってマスクをしたり。

た:なぜ糸井さんとの対談を残そうと思ったかというと、糸井さんは木こりの仕事を普通にできてるのを知っていたから、東京にいて「どこへも出かけられない」というのとは違う数か月を過ごしているはずで…今日も木こりの仕事の後に来てくれたし…
かたや私は東京にいるしかなくて、もう部屋から出るのもスーパーに行くだけみたいな感じで。あまりにも対照的な数か月だったから、お話をしたいなというのがあった。
残すなら事前に糸井さんにこの話をしておいても良いなとは思ったんですけど、この展示にきたお客様はみんな何も知らずにここにきて、最後はそこに座って話すから、そのルールはそのままにしようという事でこういう形になりました。


とくに東京では、テレワークでモニター越しの仕事とか、ZOOM やSNSでしか繋がれなくて、もちろん物理的に距離のある人と顔を合わせて会話できるのは便利だけど、でもモニターの前に縛り付けられてたという感覚しかないから、体感としてはそこに世界は無いな、とさっきもNさんと話をしていて。
身体的にも今までとそんなに変わりのない生活を糸井さんはしていて、きっと違う視点で今回のことを見てるのではないかなと思ったんですよね。

糸:逆にちょっと面白いかなと思うのは、自分は群馬に移ってもうすぐ3年になるけど、それまで15年間東京で会社員やってたじゃないですか。
その仕事では結構長い間リモートをつなげる仕事をやってて、同じ外資系の会社が世界中にあるのでインドとロンドンを繋いで東京で通話したり、各国の時差も把握してないといけなくて、あっちはまだ早朝だからもう少し遅い時間で繋ごう、とか。テレビ電話はたまにしかやらなかったけど声だけ繋いで画面を共有する時間を取り決めるなどの仕事を10年近くやり続けていて、
自分の中ではその時点ですでにしっくりきていたのに、ここにきてテレワークなんて今更だなぁ、と思ったりする。その上、今になって自分自身は当時と正反対の仕事をやっていて、逆に変なところにいるなぁという感じがあります。

た:我々と全然違う時間の長さと理由で、コロナの前後が糸井さんにとってごちゃっとなってるのが面白いですね。

糸:普通の人だったら経験できてないことかもしれないなって思いますね。僕と15年間一緒に働いていた人たちは今こんな生活はしていないわけじゃないですか。
この状況で自分は山の中でのびのびと仕事をしていたりする。不思議ですね。

た:色んな意味で違う視界が糸井さんからは見えていて興味深いですね。

ニュースとか見て不安になったりとかはなかったですか?

糸:一人でいることの不安というのは普段からありますけどね (笑 

家族がいたら感染とか気になるし、一人ならそれはそれで気を使わなくて楽ですけどね。
あ、そういえば、展示一回やったんだよね(*3)
(*3 「ラップランド展」。高崎市にある「でんえもんときわ」で行われた2人展。3/22~4/12)

た:そう!行けなかったんです…東京から出られなくて行けなかった。

糸:昨日アーツ前橋の学芸員さんに「あれは幻の展示だ」とかって言われてね(笑

た:一番ピリピリし始めた頃でしたよね。あれって緊急事態宣言より前でしたっけ?

糸:直前あたりだったんじゃないかなぁ。

た:そして、ナンドナーレ(*4)も来れず。
(*4 東京都代田橋にある「納戸」で行われていた公募展。3/27~4/12)

糸:そう。

た:あの時期はね、1番緊張感のある時期でした。

糸:展示を見に来て帰るくらいだったら出来たかもしれないけどね、結局展示も見て、みんなと集まるところで飲みたいっていう目的もあるから、それが一番ダメって言われちゃったからね。わざわざ来て顔見ただけで帰れないよね。

た:そう。人と会って飲めないのがやっぱり悲しくなりますよね。

糸:もう全然外で食事とかしてないの?

た:その期間は外食してないです。

糸:最近はした?

た:最近やっと外食してます。その前は…緊急事態宣言よりも前に都内ではもう外食しない方が良いっていう雰囲気になってて、テイクアウトを買って食べたりはしたけど、それ以外は家の中の食糧が無くなったら買いに出かけて、3日分くらいの食材買ってあとは家に籠って、その繰り返しでしたね。それ以外は本当に出かけなかったですね。

糸:全然違う世界だね。

た:中之条に行くなんて夢のまた夢です…自分の家と商店街しか無い2か月って生まれて初めてじゃないかな。自分で歩けるようになってからこんなに活動範囲が狭かったことはかつてないですね。
お店も何もやってないし、自分のパフォーマンスとかの予定も当然全部なくなってしまったし、自粛も途中からはいつ終わるのか全然わからかったので家の中にあるもので何かする以外なにもできなかったんですよ。

だから何になるのかは分からずにただずっと作業をしてました。


部屋でひたすら何になるかわからないものを作ってそれをSNSに載せるということを続けてたんだけど、それは別にその作品自体に意味があるとか、写真としてカッコイイかどうかじゃなくて。ただ「今日はこんな行動をしました」みたいなことを流したかったんです。
「家に籠ってZOOMで会議しました」とか「スーパーに行ったらマスクしてない人がいた」とかそういうことは発信したくなかったんです。
この生活の中でもっと個人的なことってできるはずで、締め切りも評価も人気も…求めずに好きにできる時間だなと思った。
それで、自粛期間が明けてすぐに展示をする、ってなったときに、せっかくだからこの行動を今度は実際の空間で見せることにしたら、観る人にとっても私にとってもどんな体験になるのだろうかっていうことをちゃんと体で感じたかったんです。
くだらないと思って見てくれてもいいし、これを観たことで自分の自粛期間とすごくリンクしてしまう人もいて、それぞれ自分の見方で観てくれたらいいなと。ここに人が入っていって、どんな風に見て、最後に座って話した時にどんなお話をになるのか、ということをまるごと私も体験したいと思ってました。

糸:ブックカバーはSNSで見たからわかるし、結構わかりやすい作品だなと思ったけど。

た:ブックカバーについてはですね・・・SNSですごく回ってたけどチェーンメールみたいなものを回す気もなくて、チャレンジって何?何がチャレンジなの?ってモヤモヤしてしまって。ブックカバーにチャレンジでしょ?・・・ブックカバーにチャレンジって何?って考えているうちに段々と「あ・・・ブックカバーにチャレンジしたい」となってしまったんです(笑
あの文章は頭の中でグルグル考えていたことをバーっと一気に書いたんですけど…
今回の事態に対して何か発言しないと表現者としてどうなの?って言っている人がいたりして、私としてはそこを直接表現したいわけじゃないという気持ちがあって。
パフォーマンスをする人間だからか、どこからどこまでがパフォーマンスなのかという明確な線引きが自分の中であまりないんです。自分がフェイスブックとかで話すことは既にパフォーマンスになっちゃっている気がするんです。

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“#ブックカバーチャレンジ” 部分

糸:じゃあそのパフォーマンスじゃないところって、日常生活なの?それとも自分の素のままってこと?
その線引きが曖昧っていうのもわかるし、どっち側かどっち側じゃないかって事なのかもしれないけど、パフォーマンスじゃないところってどんなものなの?

た:パフォーマンスじゃないところってあるのかな…寝ててイビキかいてるときくらいかな(笑
これはパフォーマンスじゃない!って言いたいのはそれくらいかな。
それくらいには線引きが無いんですよ。今こうやって糸井さんと話しているのはパフォーマンスかもしれないけど、一緒にお酒飲んで話してるのはパフォーマンスじゃない気がするけど、見てる人がいたらそれはもうパフォーマンスかもしれないから…立場によって行動は結局パフォーマンスと言い得てしまうんですよね…

糸:なんかね、それと同じかどうかはわからないけど、写真という表現や考え方で日本で結構多いのはカメラを必ず使わないといけないというのがあって、そうすると撮った時が基本的に作る時。写真を撮るという行為自体が写真家もしくはカメラマンとかそういうことになる。
するとカメラを持つと目つきが変わったり性格が変わったり動きが変わる人っていうのが凄くいて、そうするとそこが線引きなのかなって思って。
ただ自分はそういう表現の仕方をしてなくて、カメラが真正面に向かってそれに引きずられている。そういうことはあってもカメラはあくまでも手段の一つにしか過ぎない。写真じゃなくてもいいし、カメラ使わない人だっているし。
そこで自分が思ったのは、昔よくやっていた報道写真と自分の表現写真はパラレルな感覚がある。そうするとそこの切り替えってすごくあるんだよね。報道の写真撮ってるときと、表現の写真撮ってるときは全然マインドが違うんだよね。そこに切り替えがあるなって思って

た:あー、でもそれはあれに似てるかも。自分が舞台で踊る時と、自分が表現って言ってるものが違う。例えばコンサートの振付をするとか、大きな舞台でダンサーとして出るのとは全然チャンネルが違うからそれは似てるのかも。

糸:でも、撮ってる自分はパフォーマンスしてるとは全く思ってないんだよね。日々の生活の中だからやってることはイビキかいてることとそんなに変わりがない

た:そうですよね。じゃあパフォーマンスってなんなんだっていう思いがずっとずっとあって、パフォーマンスって身体で表すことが全部なのかって思っていたりするんですよ。
なんでこんな話をしてたのかっていうと、SNSとかで発信するものについても、そこでの行動や発言は私にはパフォーマンスなんですよ。だからそこで直接的に政治の事を言ったり、何かに自分は物申す、みたいなことを言うのは私自身にしっくりくる感じがなくて。
それでも何かモヤモヤするもの、世の中の状況とか、そういうものがギューっとまとまって突然出てきたのが例のブックカバーチャレンジで、あの文章考えている瞬間はもう、自分は村上龍になってる気分で(笑。だからあれは紛れもなくパフォーマンス作品。

糸:でも今の一連の言葉を聞いて思ったのは、パフォーマンスって観る人がいて、「その人たちを意識する自分」みたいなのがあったりするんじゃないかな?観る相手に対する意識のようなものがあるのかな。
写真も一緒なんだけど、「観る人はこうやったらウケるだろう」と思ってやるとたぶんそれはパフォーマンス的になるし、もしくはそれじゃないってなるときは素の自分が出てくるときもあるんじゃないかなって
SNSなんかも自分で思ったまんまのことをだっと書いてる人とか「これ書いたらこれを読む人はこう思うだろうから、ここの言葉をこうしておこう」って書いてたり。それはもうパフォーマンスだよね

た:その作為があることが良いのか悪いのかというのにも正解は無い気がして、その作為の無い発言の方がやっぱり良かったりすることもある。

パフォーマンスにおける身体についてもそうだけど、人が観ていることを意識して作為的にやることよりも、駐車場で缶コーヒーを飲んでる姿の方がぐっと来るときもあったりして。じゃあそれを作り出せたらいいけど…っていうのがグルグル堂々巡りになるんですけど。
人の視点によって実は何でもパフォーマンスになり得るから、それが何なのかは観てる人の意識でも変わるのかなって思って。

糸:それって時代によってもだいぶ変わってくるよね。時代の考え方とか流行り廃りみたいな。そういう話をちょうど先日スカイプの英会話でもしていたんだよね。
一時期は全く売れなかった作家の作品が100年以上経った今になって高値で売れるようになるみたいな。自分は芸術の歴史を勉強していたんだけど、過去にはどの時代にどういう作家がいて、どういう作品があって、人々はどういう見方をしていたか。
今それを自分に当てはめてみて、写真始めて100年も経ってないし…こうした方がいまの時代に合っているからっていう作品を作っちゃダメだなって思っていて。
そうすると自分という作家の思いが出てくるところにフィルターがかかって濁っちゃうような気がするから、常にそこを気を付けてる。
ただ気をつけている自分もそもそもパフォーマンスになるのかっていうと難しいね。

た:そうそう。それが堂々巡りになるわけですよ。特に我々はパフォーマンスをする人だっていうことになってるから、常にお客さんとも“どこからどこまでが?”って話になるし、
作品を作っている過程でもそういう話になるし、じゃあ何が作為なのか、パフォーマンスは作為なのかとか。作為って演出なの?という話になったりして。それってもう、落ち着く形は無いんですよね。

糸:それをし続けるとすべてがそうなってしまうんだろうな、そうすると戻ってこられるのか?素の自分っていうのはどこにあるのか?

た:そう、でもそもそも素の自分なんてあるのか?みたいな話にもなってきて、この話には終わりが無いですね…(笑。


糸:じゃあ仕切り直して、他の作品のことも聞きたいんですけど、

あの土嚢袋の作品…あれはどこからきたの?

た:あれはですね…いつも衣装作ってくれてるRitenutobytacさんが、24時間で何かを作りましょうという企画をやっていて、自粛期間中にそれに参加することになったんです。
その企画では無作為に選ばれた単語を二つ並べてその時のテーマが決められて、それに沿って全員が18時から翌日の18時までの24時間で作品を作るんです。
そもそも私は何もしないで先にテーマを決めるということを普段しないんですけど、ルールだから受け入れてやってみるわけです。
とはいえ全然何したらいいかわからなくて、しかもそのテーマになった言葉が強すぎて、んーって悩んだ末その日は諦めて何もせずに寝たんです。そしたらその夜に見た夢が奇想天外でして。

その夢の中でカサカサ鳴る巨大なグレー色のシダの葉っぱがサーっと降りてきた景色があったんですよ。
目が覚めてからすぐに「カサカサねぇ・・・・カサカサねぇ・・・・あ、押入れに土嚢袋があったはず!」と思い出して、起きてすぐ押入れ開けて使ってない土嚢袋を何十枚も引っ張り出して。
その日はね、一日中制限時間まで延々と土嚢袋を切り刻むっていう日を過ごして。(笑
それを風呂場の天井につけて写真撮って「私はこれだ!」って言って終わりました。あれはもう瞬発力で作った作品ですね。

 

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“夢のカサカサ” 

糸:なんで土嚢袋持ってたの?

た:前に大宮の展示(*5)の時に使った大量の丸めた紙を後でまた使いたいと思って、とっておくために土嚢袋に詰めようと用意したんですけど、全然量が入らなかったので使わずじまいだったんですよ。

(*5 さいたま国際芸術祭2020 先行プログラム、Damadamtal 個展「幕はすでに開いております。」)


糸:自分がちょっと前に仕事で行ってた現場で農業をやっていて、初めて土嚢袋に土を入れて実際に使ったんだけど、何に使ったかっていうと水の流れを変える。
たんぼの脇にある側溝にたまった土を全部掻き出す作業をして、それから用水路から水を引くんだけど、ある程度その田んぼに水がたまったら今度は別の農家さんのやってる田んぼに流すために土嚢袋を使って操作する。そういう使い方するんだよね。
昔友達が山の奥を切り開いて釣り堀を作ったんだけど、釣り堀を作るのに水が必要で、山の上の方だとどこかから引くにしても山のふもとに住んでる人たちの水利権があるから、そういう人たちを説得するのにものすごく苦労したっていう話を聞いたことがあって。そういう水の流れの操作っていうのに土嚢袋を使ったから、この作品はすごく印象的だったんだよね。

た:なるほど。思い出すものは観る人によって全然違うのは良いですよね。

土嚢袋の使い方と言えばこれがまた面白いもので、うちの父親が内装業をやっていて、現場に手伝いに行ってた時期があるんだけど、マンションのリフォームをするのにまず解体からやるからその廃材を土嚢袋に詰めて業者に渡すっていう工程があって、
あの作品の制作のときに、過去にそうやって土嚢袋に関わってたことを急に思い出しました。
そしてこれがまた変なんだけど、活動してると何故か父親の記憶に結び付くことが凄く多い。
父親はもうだいぶ前に亡くなっていて、その頃がわりと大変だったからその記憶は悲しむというよりも騒動が終わった安心感みたいなものの方が強かったんですよ。
生前に色々あったから、そっちの記憶の方が印象が強すぎて、もしかしたら家族としての記憶がちゃんと消化されてないのかもしれないんですけど、何をしていても今回みたいに「父親と仕事をしたときに土嚢袋使ったな」とかそうやって記憶が急にフラッシュバックしてくるんですよね。
土嚢袋って独特な匂いがあって、この匂いを嗅いだ時にふっと思い出したんです。それはちょっと面白い体験だった。

糸:では、あの奥の部屋の黄色い作品群はどういう経緯で作ったの?

 

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“無関係な春との関係” 


た:あの作品は2つの理由があるんですけど、1つは昨年秋からさいたま国際芸術祭で大宮にある特別支援学校にワークショップをしに行っていて、その時に色々な黄色い材料を床に置いて、それを生徒の皆に好きなように関わってもらって、その跡として結果できたものをそのまま作品としていくっていうことをやってたんです。
で、その残った材料を使ったんですけど、紙をまるめる行為とクシャっとなった紙は人から見たらゴミなのか作品なのかっていう見え方に興味があって、
これは子供たちとの作品作りでも気になって、どこからパフォーマンスでどこまでがそうじゃないのかっていう堂々巡りと似た感じなんですけど。
それともう一つは4月に前橋にいったときに菜の花がとにかくたくさん咲いていて、その夜に緊急事態宣言が出たのもあって、その景色が妙に脳裏に残っていて、家の中が菜の花でいっぱいだったら良いのにって思ったんですよね。
この二つの理由が一緒になって、何になるのかわからないけど残った黄色い紙をくしゃくしゃに丸めて、それを針金に通す作業を4日間やり続けるっていう週があったんですよ。

糸:その作品が使い古された机の上にある雰囲気が日常の記憶で、その周りには記憶が真っ白に遮断されてる感じで、それらが行ったり来たりしてるのが面白い。なんかそれが記憶と関連してるのも面白いよね。

た:あの机は元々この家にあったもので、実はあの机の引き出しの中にはまだ物が残っているんですよ。
で、あの黄色い作品のところに置いたら元々作ってたのは私の記憶だったけど、あそこの机から出てくることでなんか違う記憶が出てきてしまったようにも見えました。

インスタレーションとか物を展示するというのが今までは本筋ではなかったけど、自分の中では身体表現の一部として並走したいんです。でも今までのことを考えると、人から見たら「踊る」とか「それらしいパフォーマンスをする」という行為が強いから、そこの印象だけにならないような活動をしていきたいと思っていて、だからこういう展示とかは自分が体を動かすときと同じかそれ以上に丁寧にやっていきたいと思っています。
そう思った矢先のこの期間だったから、時間をかけて物を作れたのはとてもラッキーだったんですよ。
そして自分でどの程度できるのかっていう感覚は実際にやってみないとわからないこと、イメージはあっても実際にやらないと在ることにならないから「今、自分の思っているのはこういうこと」をこのタイミングで提示できたことはとてもありがたいし、糸井さんにも観に来てもらえて良かったです。

 

糸:じゃあ後は移動して、飲みながら話しますか(笑

 

た:はい!(笑

ー2020年6月  rusu 目黒

「そうじゃない明日/Another Tomorrow」

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